先日の風呂敷をたたむ
なんとこの内容続きます...
とは言ったはいいものの、若干後悔している今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。
いやね、言い訳させてもらいますとね、書いてる時はノリノリだったんですよ。超ノリノリ。ところがまあ数日置いてみると全く書く気が起きない...くそ凡人が伝統を語ろうとか片腹痛いなんて思う始末です、ハイ。しかし、風呂敷を広げたままというのもいい気分ではないわけで、もう適当でもいいんであの時ノリノリで思ってた事について書いてこうと思います。
(´・ω・` )
ぶっちゃけ結論から言いますと、伝統ってやっぱスゲー、マジリスペクトということです。
いやね、伝統なんぞ年を重ねただけじゃないのかと思えるわけですが、逆説的に?言えば長い間存在し続ける伝統というものは凄いもんだなとも思うんですよ。文化にしろ物にしろ、時間の移り変わりによる淘汰は行われるもので、過去にいくら価値が高くとも、現在はゴミ屑、いやそもそも存在すら消えているというものはザラにある筈です。
しかしその淘汰を生き延び、現在においても「伝統」として存在し続けるということは、時間の移り変わりを経ても価値を発揮していることになります。つまり伝統とは、数々の「現在」において必要とされ続けた証、ということではないでしょうか。ここから考えると、伝統とばかり言って現代において存在が形骸化しているようなものは、淘汰されても仕方がないわけですよね。現代のニーズに応えようとして様々なチャレンジをしている歌舞伎なんかは、まさしく伝統芸能と言えるのではないでしょうか。
御柱祭が現代まで続いているのも同じことだと思います。危険で荒々しく、正直意味不明なことも多いですが、先日の番組を見ていても、伝統だからやっているという印象は全くありませんでした。本当に諏訪地方の人に、今、必要とされているのだなと。まあ、それかカメラマンとディレクターの腕が相当良かったかですかね。
伝統と聞くと過去の遺物というイメージは確かに強い。しかし現代にまで淘汰されず生き残るためには、どの時代の一瞬一瞬においても、必要とされなければいけません。伝統こそ今を生き続けていると言えるのではないでしょうか。勿論これはあくまで一つの見方ですし、そうとも限らない形骸化している伝統もあるはずです。さらに言うならこれはくそ凡人の思いつきです。
ただまあ、これをきっかけに伝統について、少し思いを巡らせていただければ、くそ凡人も幸せであります。風呂敷もたためて良かった良かった。
次からは考え無しに「続く‼︎」とかやらないようにしないと...いい教訓になりました...